短歌連作「逃げ水」

ひかりの速さで誰もが駆ける 生きるなどしている 当たり前のことだよ

吸いさしのたばこが崩れ落ちゆくもあなたは何も悪くはなくて

かろやかにボタンを外す 夏になる 鎖骨に水は鈍くひかって

泣くことの供物としてのありさまを母はわたしに教えなかった

思い出は鈍くわたしを殴りつつ知らぬ顔して咲く百日紅

本物の愛だ 切り口のケーキをあなたに差し出すことは

八月に読点を打つ。軽やかにエンターキーを叩くゆびさき

秋はまた本を開いてみるごとくわたしを開き始めてしまう

ゆるやかに秋はふくらみいくたびも風は喉を通りぬけゆく

いくたびも季節に殺されながら生き延びて青春を焦がしている

/水科あき

第四回笹井宏之賞最終選考候補作として、『ねむらない樹』vol.8(書肆侃侃房/2022年2月刊行)に十首掲載いただきました。はじめての応募で、とても思い出深い連作です。
評をくださいました先生方、ほんとうにありがとうございました。